中's blog

宮澤賢治と震災

 横浜関内の吉田町画廊での二人展が終了いたしました。不安な時期にもかかわらず、会場に足を運んでいただいたみなさま、どうもありがとうございました。

 今回の二人展で展示した型染めの作品は、そのほとんどが宮澤賢治の詩句を型に彫り、藍で染めたものでした。偶然ですが、賢治は、このたびの地震と津波で甚大な被害を受けた岩手に生まれ、生涯をすごした詩人です。生前に出版した唯一の詩集『春と修羅』には、関東大震災の影響を受けた心象がつづられた詩も収められています。ですから今回は少し、宮澤賢治の詩について書いてみたいと思います。

 自分の詩を「心象スケッチ」とよんだ賢治は、『春と修羅』を編集するにあたって、みずからの「心象スケッチ」を時系列に並べました。すべての詩の末尾に、その詩が作られた年月日が記されているのでそれがわかるのです。1922年の1月から、関東大震災の起きた1923年の9月1日を経て12月まで、約2年間の「心象スケッチ」が、『春と修羅』には収められています。

野口さんの染め仕事<高尾山>/訂正

 節分は季節の分かれめ。暦のうえでは春のはじまり。日もずいぶん延びてとくに夕方に早春の気配を感じる時期ですが、寒さはまだまだ厳しい! うす曇りの2月8日、節分の日に糊置きした生地を染める作業に行ってまいりました。

 野口さんにお仕事のことをあれこれおうかがいするうちに、先の記事の中で数字等、間違って書いていた部分があることがわかりましたので、ここで訂正します。

 「長板は、それぞれ巾40センチ、長さが14メートルぐらい。ちょうど、反物が一反、広げられるサイズです。」と書きましたが、長さは6.5メートルの 間違いでした。ちょうど、反物の半分の長さを一度に広げられるサイズ。まず半分、糊置きをして、それが乾いた後巻きとって、さらに半分を糊置きするのだそ うです。

 「寝かされていると言っても地べたに寝かされているわけではなく、地面から50センチくらいの高さでしょうか。その高さにはたいせつな意味があって、反 物をその上に広げて型を置いていくとき、13メートルある反物ものの端から端までいっぺんに、職人さんがじぶんの目の高さで見渡すことができ、狂いがない かを確認できる高さなのです。」の部分への加筆補正。

野口さんの染め仕事<高尾山>

 2011年節分。よく晴れてあたたかな一日でした。今年はじめての染めの作業をするため、現場まで出向きました。八王子の秋川街道沿いに面した野口染物店。かわうそのプロフィールでも紹介していますのでくりかえしになりますが、江戸時代から続く紺屋(こうや)さんです。

 現在の親方は六代目の野口汎(ひろし)さん。30代半ばの息子さんが跡を継ぐために現在修行に励まれています。かわうそは毎回、藍布をつくりあげるとき、このお二人に力を貸していただいています。

 さて2月3日。今日の作業は糊置きです。渋紙に彫った型と白布を持って糊小屋へ。糊小屋は間口が三間程度、奥行きが20メートル程度の土間づくりの建物 です。入口は摺りガラスの入った引き戸が数枚。その戸をガラッと開けて中へ入ると、手前から奥へと、13メートル強の長さの長板が寝かされています。長板 の巾は40センチ。ちょうど、反物が一反、広げられるサイズです。寝かされていると言っても地べたに寝かされているわけではなく、地面から50センチくら いの高さでしょうか。その高さにはたいせつな意味があって、反物をその上に広げて型を置いていくとき、13メートルある反物ものの端から端までいっぺん に、職人さんがじぶんの目の高さで見渡すことができ、型置きの狂いがないかを確認できる高さなのです。

雪おんなバリエーション

 毎日けっこう寒い東京ですが、雪は降りませぬ。

 かわうそ兄弟の唯一の叔父上は、かわうそにもかかわらず「山猫あとりゑ」に棲まいしていて、そのあとりゑは青梅の二俣尾にあります。村上春樹の 「1Q84」に、いったいどこにあるどんな山奥?みたいに描写されているけれど、1984年当時は知らねども、今はけっこう家が建て混んでいたりします。 というのは脱線で、その青梅には雪おんなの伝説がありますけれども、というのが本来の前ふりです。

 雪おんなのあらすじは、ある吹雪の晩、老人と青年が雪山で遭難しかかった折、雪おんながやって来て、ふたりの命を獲ろうとしますが、おじいさんは絶命す るも、美しき青年は雪おんなに惚れられて、「この出来事を絶対に口外しない。口外したらそのときは命はない」という約束をさせられ、一命を取りとめます。 しばらくして、青年のもとに美しい女性が現れて、ふたりは所帯を持ち、子どもにも恵まれ、幸せな暮らしが続くのですが、ある雪の夜、青年はあの吹雪の晩の 出来事を妻に話してしまいます。「おまえによく似た美しいおんなだったから思い出して・・・」と添えて。雪おんなはふたりのあいだに子どもがあることを理 由に、青年の命は獲らず、ひとり、雪山に帰っていくのでした。

カワウソ暮らし

カワウソに取り憑かれるとどうなるか?

「魚が魚籠に一杯捕れるまで、そばでぼうっと水を眺めさせられるだけです。連れが欲しいんでしょう。けれど、人間様は、そんなことに時間を費やしていては、生活というものが成りたちません。」(『家守綺譚』 梨木香歩)

カワウソはもう日本にはいないかもしれないので

カワウソに取り憑かれる日本人ももういないのかもしれません。

カワウソに取り憑かれたらたいへんだ、と、思いこんでいるうちに、

カワウソはいなくなっちゃって、

カワウソじゃないものに、

取り憑かれているのかもしれない。

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