宮澤賢治と震災
横浜関内の吉田町画廊での二人展が終了いたしました。不安な時期にもかかわらず、会場に足を運んでいただいたみなさま、どうもありがとうございました。
今回の二人展で展示した型染めの作品は、そのほとんどが宮澤賢治の詩句を型に彫り、藍で染めたものでした。偶然ですが、賢治は、このたびの地震と津波で甚大な被害を受けた岩手に生まれ、生涯をすごした詩人です。生前に出版した唯一の詩集『春と修羅』には、関東大震災の影響を受けた心象がつづられた詩も収められています。ですから今回は少し、宮澤賢治の詩について書いてみたいと思います。
自分の詩を「心象スケッチ」とよんだ賢治は、『春と修羅』を編集するにあたって、みずからの「心象スケッチ」を時系列に並べました。すべての詩の末尾に、その詩が作られた年月日が記されているのでそれがわかるのです。1922年の1月から、関東大震災の起きた1923年の9月1日を経て12月まで、約2年間の「心象スケッチ」が、『春と修羅』には収められています。
時系列に並べられた詩は、いくつかの詩がひとまとまりの詩群となって章名を与えられています。その中でもっとも有名な一連の詩群は、おそらく「無声慟哭」で、結核で死んでゆく最愛の妹トシの死の瞬間から死の直後の「心象」がつづられています。詩集『春と修羅』のクライマックスとも言える部分です。
その後、「オホーツク挽歌」という章名を持つ詩群が続きます。これらの詩は、トシの死を悼む賢治が、花巻から列車を乗り継いで北上し、樺太まで旅をしながらトシへの挽歌をうたったものです。その中の一編、「こんなやみよののはらのなかをゆくときは/客車の窓はみんな水族館のまどになる」と始まる「青森挽歌」は、夜の車窓を眺めるうちに、死者と死後の世界を「かんがえだ」す長編詩で、後に「銀河鉄道の夜」へと発展してゆく「死の世界」のイメージに満ちています。「かんがえださなければならないことは/どうしてもかんがえださなければならない/とし子はみんなが死ぬとなづける/そのやりかたを通つてゆき/それからさきどこへ行ったかわからない」
次に置かれた詩群「風景とオルゴール」が、「関東大震災」の起きた直後の心象スケッチです。「オホーツク挽歌」では、若くして病死した妹トシという、たった一人の人間への哀惜がつづられますが、「風景とオルゴール」では、人間という存在そのもののはかなさ、あやうさが前に出ています。
以前より、この「風景とオルゴール」として括られた詩群にとくに惹かれ、くりかえし読んでいました。今回展示した作品にもとりあげた「過去情炎」という詩から、わたしにとってもっとも印象深い数節を、ここに紹介して終わりたいと思います。
「なにもかもみんなたよりなく/なにもかもみんなあてにならない/これらげんしやうのせかいのなかで/そのたよりない性質が/こんなきれいな露になつたり/いぢけたちひさなまゆみの木を/紅からやさしい月光いろまで/豪奢な織物に染めたりする」
地震と津波の犠牲となられた方たちのご冥福をお祈りいたします。