影を避ける/染めの仕事
2011年11月9日水曜日、帯の糊置きに野口紺屋へ行く。
薄曇りだが陽も射す午前、淡く光る空を背景に「皇帝ダリア」が花を咲かせていた。花びらはうすむらさきいろで、桜の花びらが少し青みがかったような色。「皇帝ダリア」という名まえがついているので、幾重にもかさなった豪華な花を想像していたのだが、大輪ではあるけれど一重咲きで、花の構造はごくシンプルだ。花びらもそれほど厚みがなく、かすかな風にも揺らぐ。このまま小さくすればずいぶん可憐な花に感ぜられるだろう。ただ、ものすごく背が高い。まるで樹木のように伸びている。糊小屋の屋根より、さらに1メートルは高い。
「いいかげん、早く咲かないと、咲く前に切っちまうぞ」
つぼみをつけたまま、なかなかほころばないダリアを、野口さんのおじさんは昨日、脅したのだそうだ。とたんに効を奏して、今朝、花が咲いた。
「ことばがわかるんですよ」
おじさんが笑って言う。
なぜダリアを脅したかと言うと、背が高くなり過ぎる樹木は、干してある反物に影を落とすからだ。影ができると、染めあがった反物が乾く間に、微妙なムラをつくってしまう。
野口紺屋の中庭は、そこに反物を干すための場だ。反物は一反が13メートルある。干場に使う場はおおよそ15メートル四方のほぼ方形で、南北方向の両端に、小学校の校庭にあるような鉄棒が並んでいる。反物の両端を張り手というもので挟み、その張り手を鉄棒にくくりつけ、反物に適度なテンションをかけて干す。
張り手は長さ40センチ幅5センチくらいの二本の木の板でできている。一方の内側に釘の先端のような針状の留め具が付いていて、二本の板で反物の端を挟んで固定する。張り手には縄がついており、それを鉄棒に括りつける。
また、反物にはおおよそ70センチ程度の間隔で伸子(しんし)が留めてあり、それが13メートルという長い布の「張り」を維持する。伸子は竹でできていて、両端に針が付いている。その針を布に刺して留めていく。伸子は布に留めないときはほぼまっすぐなのだが、布に留めているときは、浅いアーチ状になる。(伸子の長さが布幅よりやや長いものを使う。)凧を支えている竹ひごを思い出す。
中庭は、母屋や染め場や糊小屋に囲まれているのだが、どの建物も一階建てで、軒が低い。通常の日本家屋よりも低く作られている。染めものを干すとき、日光をより長く確保するためだ。だから、野口さんの家の、特に中庭の南側に位置する台所は天井がとても低い。建物だけではない、出来る限り中庭に影が落ちないように、植栽はすべて低めに刈り込む。背の高すぎる木は植えない。影が、干している反物に落ちると、そこだけ色変化を起こすからで、だから背が伸び過ぎた皇帝ダリアも、花が終わったら短く切らなくてはならない。
かなり昔のことだが、中庭をちょうど斜に横切るように電線が通っていた時期があって、そのラインが反物に響いて困っていたときもあった。影だけじゃなく、電線には鳥が止まるので、糞も落ちてきたり。いまはもう電線そのものが、個人宅の敷地内を横切ることなく引かれるようになったので助かっているそうだ。
仕事がうまく、気持ちよくあがるには、職人さんたちの腕だけではなく、お天気にも大きくかかっている。それも、ただ晴れればいいわけではなく、風の強さも大きく影響する。風が急に変わって一瞬でも激しく吹けば、角度によっては反物が風圧で落ちてしまい、傷がつく。晴れていても、いままでの話のように、思わぬところに影が落ちればそれも影響する。日の短い冬は、少しでも長く干すために、暗いうちから染めにかかり、日の出とともに干す。
藍の発酵具合も気温や湿度に大きく影響されるが、干すときもまた、いわゆる天日干しだから気候、自然条件に大きく左右されるのだ。
さらに、糊置きや、下染めの呉入れ(藍の定着をよくするために大豆の汁で下地として引き染めすること)など、あらゆる行程が天候に影響される。人間がわの都合どおりにはなかなかいかない。
だから難しいねえ、とおじさんは言うが、それをよしとしていることもよくわかる。人間の都合だけでは変えられない条件がある。それをちゃんと受け止めること。
切っちまうぞと脅したながらも、おじさんはダリアの花が咲くのをちゃんと待つ。ダリアを植えたのもおじさんで、毎日世話をし、大きく育てたのもおじさんだ。来週、帯を染めに行く日には、もう花は終わっているだろうか。