雨ニモマケズ
かわうそ兄弟の叔父さんこと小林敏也さんは、30年余前から、ライフワークとして宮澤賢治の世界を「画本(えほん)」として出版し続けています。
その画本シリーズの一冊として小林さんが手がけた「雨ニモマケズ」の表紙には、黒い手帳が描かれています。
「雨ニモマケズ」の詩句は、原稿用紙ではなく、手帳に走り書きされました。1931年の秋、36歳の賢治は出張先の東京で結核の悪化による高熱を出し、死を覚悟しながらどうにか花巻へ戻り、病床に臥します。深刻な発作から病床へ、その1週間のあいだに遺書のごとく書かれたのが「雨ニモマケズ」です。
「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ/夏ノ暑サニモ…」という出だしの言葉は、すべて、その後につづく「カラダ」を修飾しています。賢治の生きた時代は、結核という伝染病が効果的な治療薬のないままに、多くの人を脅かしていました。妹を結核で失い、自身も肺炎や助膜炎をくりかえし患い、最期は結核のために死んでゆく賢治は、切実に「丈夫ナカラダ」を欲していました。そして、発病、発熱をもたらす雨をひどく恐れていました。賢治の詩を読んでいると、「雨はだいじょうぶ降らない」「雨に濡れたあとはどうしてもあぶない」といった雨を恐れる詩句にたびたび出会います。「雨ニモマケズ」の「雨」は、賢治にとって、文字通り「負けたくない」「屈したくない」手強い「敵」、自分に立ちはだかり行く手をさえぎる「障害」の象徴なのだと思います。
雨に濡れただけで発病の引き金となる高熱を発するようなからだをおして、賢治は、寒冷な気候、地震や津波などの災害のために、くりかえし不作に見舞われる岩手の農業の向上に尽くします。肺を患い、脆弱であるという自分のコントロールの外にある肉体、百姓の努力と祈りをことごとく踏みにじって不作をもたらす、気象や地球の変動。そういった「自然」に翻弄されながらも、詩人宮澤賢治は、自然がもたらす神秘的な諸現象に魅了され、感応し、詩や物語へと結晶させました。
「こんなあかるい穹窿(きゅうりゅう)と草を/はんにちゆつくりあるくことは/いつたいなんといふおんけいだらう/わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる/こひびととひとめみることでさへさうでないか」
はりつけととりかえてもいい、とうたうほど自然に魅了された詩人は、病床で綴った一連の詩群、「疾中」の中の一編にはこう残しています。
「あゝ友たちよはるかな友よ/きみはかがやく穹窿や/透明な風 野原や森の/この恐るべき他の面を知るか」
自然の神秘、諸現象に忘我するまで魅了され、自然の脅威や猛威にはげしくおびえ、その両面にするどく感応する自分の「心象」を賢治は言語を用いて「スケッチ」し、みずからの詩を「心象スケッチ」と呼びました。
「雨ニモマケズ」は、真近に迫った死の予感のなかで、それまで試行錯誤しながら生きて来た生活が遂に終わると覚悟したぎりぎりの精神状態にあって、詩人宮澤賢治が、じぶんの奥底からほとばしりでた心象を手帳にスケッチしたものなのだと思います。
小林敏也「画本/宮澤賢治シリーズ」
かわうそ兄弟商会のロゴマークのかわうそを描いている小林敏也による大型画本シリーズ。その一冊、一冊が工芸品のように作られた本です。
「雨ニモマケズ」は、原画は墨摺りの木版画。それをもとに印刷用の版を起こし、印刷所で色インキを用いて多色刷りをし、一冊の本となりました。一ページ一ページ、その画面を、「版画」として味わえる画本です。
画本 宮澤賢治 作 宮澤賢治 40ページ
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パロル舎版の在庫は終了しました。好学社から復刻版が出ております。書店等でお求めください。
1947年 静岡県焼津市に生まれる
1970年 東京芸術大学工芸科卒業
デザイナーかつイラストレーター
イラストレーションの周辺も視野に入れたトータルな絵本づくりをめざし、
青梅に“山猫あとりゑ”を営む
画本 宮沢賢治シリーズはライフワーク。
他に、詩画集【賢治宇宙】、【賢治草紙】、【賢治草双】、【ポラーノの広場】、
【黄いろのトマト】、出井光哉作【才造どんとごろさくざゑもん】がある。
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